凡人を育てるための日本の学校

エディ・スナオの呟き

子どもたちは操り人形

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 近年、「主体性」という言葉が、教育界では重要視されています。

 平成29年に学習指導要領が改定され、通称アクティブ・ラーニングと言われる「主体的・対話的で深い学び」を行いましょう、と先10年間の教育の指針とされました。

 

 しかし、これは教員にとっての都合の良い主体性になっているような気がします。

 

 学習指導要領では、評価の基準も表記されており、一応学び方の想定があるわけです。それに合うよう教員は誘導し、評価するわけです。

 

 その中で、「こう言えば先生は嬉しいはず。」と察した子どもが、素敵な発言をした場合はいかがでしょう。賢く優しい子は特にそうでしょう。

 逆に、「その考えは違う。」と一見協調性がないように感じますが、本心を言っている場合はどうですか。(私は協調性がないのでこちらのタイプです。主体的に全く違うやり方などを考えて積極的に行っていました。笑)

 

 となると評価されるのは前者の子どもでしょう。言い換えれば忖度しています。そうなると思い通りに動く生徒が評価の対象になるわけです。全ての子どもが本当にそうかと言われたらわかりません、というのが現状です。「主体性」とは難しい指標です。

 

 話は変わりますが、式典や行事などで、無駄に礼を揃えたり、無駄に演技指導をしたり、これは必要でしょうか。見栄えを良くしたいと言った、教師や学校自身の評価を気にした指導になっているようです。そうなると、本当の生徒のため、にはなりません。

 まずは、子どもたちにどこまでの形に仕上げたいか、などと聞いてみるのがベターだと思いますが、多くの先生はこれをしていません。自分の勝手な、「綺麗に仕上げて達成かを養いたい!」という思い込みから来ているものです。特に酷いのは、それによって昼休みや放課後を搾取する場合なんかですよね、、、そして、その中で、自分の思う通りに動く生徒がやっぱり評価されます。

 

 残酷な世界ですね…

 

 もっと子どもの気持ちをしっかり聞いてあげて、共感し共作する必要があると思います。

 

 ここら辺は前に書いた、自己コントロール感が関連してくるでしょう。そちらも併せて読んでみてください。自己コントロール感を与えない